水上恒司さんは、『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』で日本アカデミー賞「優秀主演男優賞」を受賞しています。
水上恒司さんの野球人生から野球引退後、高校時代に演劇部に所属後、芸能界に入った経緯をまとめました。
水上恒司は野球選手だった
水上恒司さんは、父親が野球経験者だった影響で8歳の頃からリトルリーグの「ヤング福岡ライナーズ小学部」に所属して、硬式野球をはじめています。
このチームは全国大会に出場した程の強豪で、水上さんも小学生時代からかなり鍛えられました。
そのため野球をはじめた以降は野球一筋で家族旅行にも行けなくなったようです。
厳しい練習に耐えてこのチームのレギュラーとなり小学校時代からプロ野球選手を目指していました。
水上恒司さんの高校時代
水上恒司さんは、長崎の創成館高等学校で野球部に所属し、2番手キャッチャーとして背番号12を付けていました。
在学中は残念ながら甲子園には出場できませんでしたが、「イケメンキャッチャー」として地元で有名な存在でした。
他校との練習試合では、たくさんの対戦相手の高校の女子生徒が水上さん目当てに見学に来ていました。
水上さんは、他に正捕手がいたことから控え捕手でした。しかし、高校3年生の夏の大会の長崎予選準決勝では、初の公式戦スタメンマスクをかぶっていて、試合では4打数2安打と結果を残しています。
試合は、残念ながらこの大会で優勝して甲子園に出場した波佐見高校に4-5で敗れてしまいました。
最後の試合で、水上さんは、チームメイトの前では泣きませんでしたが、ベンチ裏に来ていた両親の顔を見たら思いが込み上げてきたそうです。
今まで自分勝手に野球をやらせてもらったのに、しかも家族と離れてすごくお金もかかるのに協力してくれたのに、結果を出せなくてごめんっていう気持ちで涙が出ました
高校3年生の地方予選ベスト8で惜しくも敗退したその直後に演劇部からスカウトされ、特待生として入学した水上恒司さんは、野球部で結果を残せなかった悔しさと高校に対して恩返しをしたいという思いがあったと、スカウトに応えたとのことでした。
演劇部では、『髪を梳かす八月』で特攻隊員を演じ全国高等学校演劇大会に出場し、九州ブロック大会最優秀賞を受賞した。水上恒司さんは、高校卒業後大学に進学し野球を続けるつもりだったが県大会出場後に「役者になりたい」という気持ちが芽生えたそうです。
また、中学1年生の冬に現在の所属事務所にスカウトされていますが、野球一筋だったことから「何を言っているのだろう」と断り続けていたと話されています。
中1の冬で、給食袋の袋を振り回しながら帰っているときに呼び止められて。そんな中で名前を聞かれたりして正直に答えて、家に帰ってお母さんに言ったら名前教えるなんてとすごく怒られて(笑)。ちょっと落ち込んでいたら、次の日も同じところにいて、今度は2人に増えてる!恐怖を感じて道の反対側を歩こうとしたら、こういう者ですって、改めてスカウトされました。
こんなエピソードもありましたが、水上さんは、はじめてのスカウトから5年後に芸能事務所入りをしています。
水上恒司は本名に改名!!
水上恒司さんは、俳優デビュー時「岡田健史」という名前を使っていましたが、現在は本名の「水上恒司」に名前が変わっています。
2022年8月に事務所との契約が終了したことで、新たなスタートを切るために本名の水上恒司と改めたそうです。
水上恒司の家族は?父親の教えとは?
水上恒司さんは、両親と5歳上のお姉さんの4人家族です。
幼少時は、無邪気な性格で育ち、反抗期を経験されていないという事で、役作りの際に反抗期の演技が難しかったようで、
撮影中「反抗期」という言葉を初めて監督に教えてもらい、「ああ、これが反抗期なんだ」と理解したんだそうです。
一般的に男の子は中学や」高校で反抗期を迎えることが多いのですが、「無い」と言うのは、彼の育った家庭環境と家族間の関係がとてもよかったという事でしょう。
水上恒司さんの父親の教えが心の支え
水上恒司さんの父親は、すごいイケメンでモテ男だそうです。父親が中学を卒業の時に制服のボタンをすべて女の子たちに取られてしまった程の人気者だったようです。
水上恒司さんの父の教えは、
「お前の子供には私たちがした以上の事をしてやれ。それが私たちへの最大の恩返し」
「何事も全力で努力、手を抜けない。やるだけやって失敗したら、それでいい。無理はしても無茶はするな」
というものあったと言います。
水上さんは、小学2年生から高校まで野球に励み、将来はプロ野球選手を目指いしていた時期があり、そのような背景に、父親の影響が関係していたようです。
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